2010/09/08

一休宗純


私の家から車で約1時間のところに

誰もが知ってる一休さん(一休宗純)のお寺があります。

8月のお盆の日(15日) 久しぶりに訪れてみました。

場所は京都府京田辺市薪里ノ内

酬恩庵 「一休寺」




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鎌倉の時代に「妙勝寺」として建てられましたが  

「元弘の戦い」で戦火にかかり廃退  

1456年に 一休宗純 禅師が宗祖の遺風を慕って建物を再興  

恩師に酬いる意味で「酬恩庵」と命名し  

生涯の後半をここで過ごされたそうです。 






山門をくぐりますと

真っ直ぐ伸びたもみじの道



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紅葉の季節はさぞかしキレイでしょうね。。。

訪れたのは真夏

もみじ はますます緑深く

今しがたまで降っていた雨が葉を濡らし

より一層 その色を濃く写しだします。



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(日本昔話より)






1481年11月21日

一休宗純は88歳で 示寂され

遺骨はこの寺に葬られました。

今もそのお墓が残っています。




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一休さんは第100代後小松天皇の落胤と伝えられていまして、

お墓は御陵として宮内庁が管理しています。

   その証として 門は菊花の透かし彫りで飾られていました。

ここは普段は入ることはできませんが、

門扉の菊花の透かし彫りからその中をそっと眺めますと、

立派な御廟所と

すっきりと整えられた、禅院式枯山水の庭園を見ることができます。




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一休さんって、天皇の子どもなのになぜお坊さんになったのでしょうか?


一休は、後小松天皇と、宮仕えしていた日野中納言の娘 照子姫との間に生まれました。

この、お母さん照子姫は藤原氏の系統を継ぐ、南朝の高官の娘さんで、

この時代朝廷は南朝と北朝に別れ

足利氏とともにすったもんだしていた時代。

後小松天皇は北朝最後の天皇ですから、いくら好きといても周りが許さない。

それに、

帝が照子姫をあまりにかわいがるので、それをねたむ者に落とし入れられたんでしょう。

照子姫は一休の生まれる前に宮中を出されたんです。

そのため一休は、洛西嵯峨の民家で誕生しています。

一休が6才の頃、その将来を僧侶にと願った母の考えによりまして、


禅宗の臨済宗 安国寺(京都)の像外鑑公和尚のもとに出家したのでした。






ここ、酬恩庵の本堂的存在の
方丈の屋根
とってもりっぱです。      



酬恩庵詳しくお知りになりたい方はは  ココ


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入ってすぐに出迎えてくれるのがこのつい立。。。
あのエピソードがうかんできます。

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それに、アニメの一休さんの写真もあったり。。。

頭の中であの「♪すき すき すき すき すき   あいしてる♪」

のフレーズが何度も聞こえてきます^^;





方丈庭園はそれはそれは、きれいに整えられたお庭

南庭、東庭、北庭と三庭からなり、それぞれ違ってなかなか楽しめるお庭です。

この日は一番だったのでのんびりお庭を拝見しました。



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実はこの日(8月15日)ココを訪れたのは目的があったのです。


それは、

毎年8月15日・16日に、

江戸時代の狩野派の画家 原在中(はらざいちゅう) 

が画いた「観音三十三身」三十三幅の掛軸を

虫干しのために 方丈にかかげられます。
(曝涼といいます)


この掛け軸は 法華経 の観世音菩薩普門品(かんぜおんふもんぼん)に説く、

観音様が三十三身に変化する教えや功徳が、

具体的な場面をもって極彩色で描かれています。


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ずらりと掲げられた「観音三十三身」

襖絵も狩野探幽の筆

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一幅、一幅に詳しく説明書きがあります。

なぜこの絵がこのお寺にあるのか、

一休さんとの関係などについてはわかりません。

次回訪れたときに質問してみたいと思います。



境内には他に本堂や宝物庫、開山堂などがひっそりたちならび

京都らしいたたずまいをみせてくれます。


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一休さんって、アニメでおなじみ。 
あのかわいくて頭のいい小坊主さんのイメージしかなかった私ですが
色々と調べていくうちに、ちょっと違っていたことを知りました。
 
 
もちろん、幼少の時から賢い子どもだったようで、
わずか13歳で漢詩を作り15歳で作った
『春衣宿花』は京の都でもちょっと有名になったそうです。
その後、大徳寺で悟りを開きますが、変わった性格で普通の僧侶の生活はしないで、
詩·狂歌·書画と風狂の生活を送った様です。
戒律などまもらず、髪はお坊さんのように丸めず ひげをはやし
飲酒や獣も食し、そば女もいたそうで、
「まともな」禅僧からは破戒僧と呼ばれ反対に、
庶民からは生き仏とあがめられた人格者だったそうです。
ちょっと昭和の寅さん的な感じだったのでしょうか。。
だからこそ、今にいろんなエピソードが残っているのかもしれません。
一休宗純については色々な文献があって、調べれば調べるほど奥が深そう。
 
まずは手始めに
水上勉の「一休」でも読むとしましょう。
 

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